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東京高等裁判所 昭和55年(行コ)18号 判決 1982年12月21日

控訴人

中央労働委員会

右代表者会長

平田冨太郎

右指定代理人

馬場啓之助

石川吉右衛門

吉住文雄

村田勝

袴田五三男

控訴人参加人

民放労連山口放送労働組合

右代表者執行委員長

藤屋侃士

控訴人参加人

清水留美(旧姓村谷)

控訴人参加人

民放労連中四国地方連合会

右代表者執行委員長

松尾武久

右控訴人参加人三名訴訟代理人弁護士

田中敏夫

松井繁明

井貫武亮

右田中訴訟復代理人弁護士

今野久子

被控訴人

山口放送株式会社

右代表者代表取締役

野村幸祐

右訴訟代理人弁護士

渡辺修

竹内桃太郎

吉沢貞男

宮本光雄

山西克彦

冨田武夫

主文

本件各控訴を棄却する。

控訴費用中、参加によって生じたものは控訴人参加人らの負担として、その余は控訴人の負担とする。

事実

控訴人及び同参加人らは、「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張並びに証拠関係は、左のとおり付加するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

(控訴人らの主張)

一  参加人らの救済申立時期について

参加人らが山口地労委へ本件救済の申立をした日は、昭和四八年八月二三日であり、それは次の事実から明らかである。

1  参加人組合の出口正勝執行委員は、昭和四八年八月二三日申立人として参加人三名を連記し、参加人組合の表示の末尾にのみその印章を押捺した申立書を山口地労委の事務局に持参した。同事務局第一課の係員は、文書整理簿に右申立のあったことを記載したが、参加人組合以外の参加人らの捺印のないことを指摘した。そこで、出口は、後日、捺印のある申立書に差し替えると述べて、持参した申立書を置いて帰った。

2  同年八月二七日山口地労委に到達した参加人三名の捺印のある申立書に添付されたメモ(丙第三号証)には、同月二三日に申請した救済申立と差し替えて欲しい旨の記載がある。

3  昭和五〇年一一月五日付の山口地労委事務局審査課長岩崎太郎の控訴人宛報告書は、同地労委の文書整理簿には、昭和四八年八月二三日に本件救済申立が受け付けられており、八月二七日に同地労委から参加人らに、申立書受付を同日にしてよいかと確認を求めたのは、右のように八月二三日に既に受付が済んでいたことについての認識を欠いていたことによるものであるとしている。

4  当時の参加人組合の組合ニュース(<証拠略>)、書記局ノート(<証拠略>)にも、参加人らが八月二三日に本件救済申立をしたことが記載されている。

二  参加人清水留美(旧姓村谷、以下「参加人村谷」という。)の退職時期について

参加人村谷の退職時期は、昭和四七年八月二八日である。同参加人の労働契約書の作成、解雇予告手当と未払給料の支給、解雇予告手当についての社内領収書の作成及びこれに対する署名捺印がなされたのは、八月二八日であり、それは次の事実などから明らかである。

1  参加人村谷の労働契約書(甲第二号証の三ないし六)は、八月二八日に被控訴会社の人事課社員秋貞成彦によって一括作成されたものであり、甲第二号証の三ないし五が真正に作成された根拠の一つとされる臨時契約書一覧表(<証拠略>)、福根久子ほかの労働契約書(<証拠略>)には、被控訴会社の作為が加わっており、信用できない。

2  参加人村谷が八月二五日に退職したとすれば、当日被控訴会社において、(1)解雇の禀議、労働契約書の作成、(2)未払給料の計算、(3)解雇予告手当の支給の是非とその計算、(4)退職所得の源泉徴収表の作成、(5)離職証明書の作成などの手続が必要であったが、午後四時頃から五時頃までの間に、右手続一切を終了することは、時間的に不可能である。

3  被控訴会社は、社内手続の関係で八月二五日に未払給料を支給することができなかった旨主張するが、八月分給料(七月二一日から八月二〇日までの分)支給の社内手続は遅くとも八月二四日には完了しており、また解雇予告手当をほとんど即決の形で支払うことができたというのであるから、より少額の八月二一日から二五日までの給料の支給も可能であったはずである。

4  被控訴会社が労働契約の最終日と解雇予告手当の支払日を八月二五日としたのは、日付を遡らせたもので、その理由は、参加人村谷が結果的に同日までしか働いていなかったからである。

5  なお、参加人村谷が八月二五日被控訴会社の放送課長小山晶に退職の挨拶をしたことはない。当日、小山は他の仕事に出かけて、不在であった(<証拠略>)。

(控訴人らの主張に対する被控訴人の認否)

控訴人らの主張は否認する。

山口地労委事務局の岩崎課長は、本件救済申立の時期に関して、参加人組合の組合員が八月二三日に申立書をすべて持ち帰ったと繰り返し供述していたものであり、また参加人ら主張のメモ(丙第三号証)は、後日作成された疑いが濃厚である。

(当審における証拠関係)…略

理由

一  原判決における被控訴人主張1及び2の事実は、当事者間に争いがない。

二  まず、被控訴人主張の除斥期間の経過の点について検討する。

1  参加人らの救済申立時期について

(証拠略)を総合すれば、以下の事実が認められる。(1)参加人組合の執行委員出口正勝は、昭和四八年八月二三日参加人三名を連記し、参加人組合名下にのみその印章を捺印した同日付の救済申立書(三部、そのほか写として全く捺印のないもの七部)を山口地労委事務局に持参したこと、(2)応待した同事務局受付の第一課係員は、参加人組合以外の参加人らの捺印のないことを指摘し、文書整理簿には、収受日の欄は空白のままで、収受文書としての番号、収受文書記載の日付、件名及び差出人を記載したこと、(3)右出口は、後日申立書を捺印のあるものと差し替えるとして、これを置いていったこと、(4)同月二七日参加人三名の捺印のある右と同一内容の申立書(三部)が郵便で同地労委事務局に送られてきたが、これには、右申立書と八月二三日の申立書を差し替えて欲しいとのメモ(丙第三号証)が添付されていたこと、(5)これを受領した係員は、右要望に従い、申立書の一通(乙第一号証<証拠略>によれば、何故か乙第一号証が山口地労委では本件救済申立書の正本として扱われていたことが認められる。)に一旦、昭和四八年八月二三日の日付印を押捺したが、後記のとおり、前記出口が八月二三日に申立書を全部持ち帰ったと思い込んでいた同事務局審査課長岩崎太郎から、日付を遡らせることはできないのではないかといわれたため、参加人組合に対し、受付日を八月二七日にしてよいかと電話で確認を求めたところ、それでよいとの返事を得たので、右日付印を八月二七日に訂正したほか、他の申立書(<証拠略>)には、八月二七日の日付印を押捺し、以後、同地労委では本件救済申立の時期を八月二七日として扱ってきたこと、以上の事実が認められる。もっとも、(証拠略)には、前記岩崎課長の八月二五日、申立書の捺印漏れを指摘すると、申立書を持参した人がこれを全部持ち帰ったとの供述記載部分がある。しかし、前記(4)認定のとおり、八月二七日の郵便による申立の際、参加人らから前の申立書と差し替えて欲しい旨の伝言(メモ)があったところ(<証拠略>によれば、右メモのあったことは岩崎も担当者から聞いており、丙第三号証が後日作成されたことを窺わせる形跡はない。)、「差し替え」というからには、前の申立書が山口地労委に残っていたとみるのが自然であること、(証拠略)によれば、岩崎は、八月二五日、申立書を受け付けた係員とはやや離れた場所で執務していて、終始申立書を持参した前記出口の行動を見ていたわけではないことが認められることなどに照らすと、岩崎の前記供述部分は必ずしも信用することができない。

以上の事実によれば、八月二三日の時点で、参加人組合の捺印のある救済申立書が山口地労委に提出され、受領されたこと、八月二七日には参加人三名の捺印のある同一の申立書が、前のものと差し替えられたことが認められるから、八月二三日には参加人組合の捺印のある本件救済申立書が申立人の手から確定的に山口地労委の手に委ねられていたもので、八月二七日には捺印のなかった他の参加人二名についてその欠陥が補正されたものということができる。そうすると、本件救済申立の日は、昭和四八年八月二三日であると認めるのが相当である。

2  参加人村谷の退職時期について

前記1で認定した事実によれば、参加人村谷の退職時期が昭和四七年八月二五日あるいは八月二八日のいずれであるかを問うまでもなく、本件救済申立は労働組合法二七条二項の一年の除斥期間内になされたものとして適法であるが、右退職時期に関する当裁判所の判断は後記三の6のとおりである。

三  次に、参加人村谷の入社から退職に至るまでの経緯について検討する。

1  入社の経緯について

(証拠略)を総合すれば、次の事実を認めることができる。

(一)  参加人村谷は、かねてからアナウンサーを志望していたので、立正大学文学部に在学のかたわら東京アナウンスアカデミーに通って基礎科からアナウンス科プロフェッショナルクラスまでの課程を終了し、昭和四六年八月、被控訴会社に対し手紙で入社の希望を出し、さらに、同参加人の父母の知人であって、被控訴会社と取引のある東洋火災海上保険会社広島支店の社員小松正明の紹介によって、同年九月四日他の入社希望者と一緒に被控訴会社の音声テストを受けた。その後、被控訴会社では、女性アナウンサーが昭和四七年一月二〇日限り退職することとなったので、その補充のため、音声テストで一応の基準に達しており、同年三月卒業予定の参加人村谷を採用の対象とすることにして、昭和四六年一二月二八日に筆記試験をし、その結果、昭和四七年一月二七日に面接試験を行い、翌二八日には採用の決定をした。そして、参加人村谷は、被控訴会社の希望もあって、在学のまま、卒業試験をレポートに切り替えてもらうなどして、昭和四七年二月一日から入社することとなった。被控訴会社では、同年一月三〇日から「モウリ・ミュージックプラザ」というラジオの音楽番組をアナウンサー竹下正の担当でスタートすることになっていたが、そのアシスタントとして参加人村谷を起用することとして、一月二九日にオーデションを受けさせたうえ、入社前の同月三〇日にはタレントという形で右番組に出演させた。

(二)  ところで、被控訴会社では、昭和四〇年以降入社の女子従業員について、最初の三か月は試用の意味で臨時雇とし、その後は所属長の上申により雇用期間六か月の嘱託扱いとすることとしていたので、前記筆記試験の際、参加人村谷に対し、右の旨の説明をし、入社に当っては、右臨時雇の契約を結んだ。なお、参加人村谷の場合、臨時雇の期間は、本来昭和四七年二月一日から満三か月後の給料支払の締切日である同年五月二〇日までとなるが、日給額の変更が予想される年度末にまたがるので、二月一日から三月三一日までのものと、四月一日から五月二〇日までのものの二通の労働契約書が作成された。

以上の事実を認めることができ、(証拠略)中、右認定に反する部分は、前掲証拠に照らし、にわかに措信することができない。

2  入社後の勤務状況について

(証拠略)を総合すれば、次の事実を認めることができる。

(一)(1)  参加人村谷は、入社後、前記「モウリ・ミュージックプラザ」を担当する一方、被控訴会社が新人の女性アナウンサーに対して行っていた研修を受けた。

被控訴会社の当時の研修制度は、講師による講習及び自習からなる狭義の研修(一か月程度)と先輩アナウンサーの指導のもと番組を見学、実習する広義の研修(見習期間、二週間程度)とに分かれていた。前者は、放送課長が講師となり、教材を使用し、発音、イントネーション、アクセント等アナウンサーとして必要な最小限度の基礎的技術を習得させるもので、一日のうち、平均二、三時間がこれにあてられ、残りは自習時間とされ、後者は、先輩アナウンサーの放送する様子を見学したり、その付添いのもとで自ら放送を行うものであった。

(2)  参加人村谷に対する狭義の研修は、被控訴会社の小山放送課長が講師となって、昭和四七年二月初めから開始された。ただ、従来の新人アナウンサーの場合と違い、参加人村谷が「モウリ・ミュージックプラザ」を担当しているため、放送日である日曜日とその準備日(ほぼ土曜日)は除かれ、また、右小山が二月一日付で山口放送興産株式会社の製作部長を兼務することとなったため、両者がそろう機会が少なく、そのため右研修は同年三月終り頃まで行われた。右研修期間中において、参加人村谷には、後記のように遅刻が多かったほか、自習時間を必ずしも十分活用せず漫然と過ごすことがあった。

なお、参加人村谷は、被控訴会社のアナウンサーの人数操りの関係で、その穴埋として、三月一八日及び一九日には、他のアナウンサーのローテーション勤務の仕事を臨時に担当したが、三月一八日には地名を誤読し、一九日には番組開始に一五分遅刻し、そのため他のアナウンサーが急遽カバーするということがあった。

(3)  参加人村谷は、同年三月下旬から、広義の研修として先輩アナウンサーのローテーション勤務について実地訓練を受けた。当時の被控訴会社における女性アナウンサーのローテーション勤務としては、H勤及びTVF勤と呼ばれる勤務形態があった。すなわち、H勤は、午前九時半から午後五時までの勤務で、その仕事の内容は、午前九時三五分には天気予報若しくは時報を告げる(これらをステーションブレイクという。)、午前九時四五分にはオギャースポット(赤ちゃん誕生のニュースで名前を読み上げる。)の放送、午前一〇時三一分から五二分までは生番組の「アローライン・ノンストップミュージック」(レコード音楽番組で曲目紹介、天気予報等のアナウンスメントをする。)の放送を行うほか、コマーシャルの録音・放送などと、時間帯により仕事が決っており、またTVF勤は、午前一一時から午後七時までの勤務で、午前一二時から同五五分までは生番組の「歌謡曲リクエストタイム」(レコード音楽番組でリクエストの葉書を読む。)の放送を行うほか、ニュースを放送するなどと、H勤同様仕事が決っていた。

参加人村谷は、右期間中の四月二一日、H勤として先輩の村田俊子アナウンサーの付添いで自ら放送を行ったが、遅刻のため、午前九時三五分のステーションブレイクに間に合わず、右村田においてこれを代行する結果となり、また「アローライン・ノンストップミェージック」放送中にレコードのタイトルを間違えて放送した。

(4)  参加人村谷は、同年五月からはローテーション入りの予定であり、同月四日には一人でH勤に入ったが、遅刻したうえ、進行表等をよく見ておらず、午前九時四五分のオギャースポットを脱落させたので、井上放送部長は、「アローライン・ノンストップミュージック」には村田俊子を付添わせた。その後、同参加人は、H勤については五月一二日から正規のローテーション入りしたが、同日コマーシャルスポットを間違えて放送し、また、TVF勤については、同月一三日にローテーション入りし、「歌謡曲リクエストタイム」を放送したが、レコードのかけ間違いをしたほか、午後五時三〇分からのテレビのコマーシャル放送で、原稿のめくり過ぎから画面と異なるアナウンスを行ったため、その日は、以後井上放送部長が代ってこれを行った。

右のように、参加人村谷のローテーション入りは、五月一二日頃と研修開始から約三か月かかり、他の新人女性アナウンサーと比較してかなり遅れたが、井上放送部長は、右のような経緯から、同参加人にはTVF勤のうちニュースを担当させることはできないと考え、同年七月一五日までは正規のTVF勤につけなかった。なお、参加人村谷は、右ローテーション入りまでの間、数回、臨時に他のアナウンサーの担当すべき仕事をしたことがあった。

(二)  参加人村谷は、前記のようなローテーション勤務としての仕事のほか、持ち番組として「モウリ・ミュージックプラザ」のアシスタントをしていた。「モウリ・ミュージックプラザ」は、日曜日の午後七時から九時まで、スタジオから生放送するラジオ音楽番組で、竹下アナウンサーが番組の構成、演出、選曲及び放送機器の操作を行い、参加人村谷の役割は、そのアシスタントとして番組の進行表に従って簡単な受け答えをするほか、番組の中で記念品を贈る当選者の葉書を読むことであった。ところが、同参加人は、竹下の問いかけに不十分な応答をすることが多く、また竹下から事前に受け取った当選者の葉書の一部をなくしたり、右葉書から住所、氏名を転記したメモを作った際、氏名を書くのを忘れたりしたほか、同年四月中旬頃、放送開始三〇分前になって、当選者の葉書を紛失したことに気付き、井上放送部長の機転で、当選者に発送予定の記念品の小包から氏名等を転記して事なきを得たことがあった。このようなこともあって、竹下からアシスタント交替の要請があり、また、録音番組の「歌のない歌謡曲」を担当していた永野純子アナウンサーが退職することになったこと、参加人村谷が五月からローテーション入りの予定であったことから、井上放送部長は、五月一杯で、同参加人を「モウリ・ミュージックプラザ」からはずすこととして、同月初めから、右「歌のない歌謡曲」を担当させることとした。「歌のない歌謡曲」は、毎日午前七時四五分から八時まで放送されるレコード音楽番組で、全国各地の民間放送各社で放送され、担当アナウンサーについてはオーデションを受け、スポンサーの承諾を得ることが必要であったが、内容は選曲したレコードを決められた構成に従って紹介するという定型化したものであり、井上放送部長が参加人村谷に右番組を担当させることとしたのは、定型的で、録音番組のためやり直しがきくということが大きな理由であった。井上放送部長は、右準備のため、参加人村谷を永野アナウンサーと一緒に実習させたり、高橋ディレクターに放送機器の操作(被控訴会社においては、一人のアナウンサーが録音やレコード等の機器操作をするワンマンコントロールシステムを採用している。この研修については、後記のとおりである。)の指導をさせた。

ところで、同年六月一一日(日曜日)、「歌のない歌謡曲」の放送準備中、当日分の録音が全く入っていないことが判明し、井上放送部長の判断でやむなく翌一二日放送分(「おはようございます。六月一二日月曜日です。」で始まるもの)を放送した。六月一一日分のテープには録音済の判が押され、参加人村谷の字で必要事項が記載されていた。このような事故は、VTRが消えているということが過去に一度あっただけであった。そのため、井上放送部長は、六月一四日からのヨーロッパ旅行に先立って、小山放送課長に対し、参加人村谷の「歌のない歌謡曲」の録音は高橋ディレクターと二人で行い、高橋が試聴すること、日曜日の同参加人の勤務は右番組の録音の練習とすることを指示し、同参加人にもその旨伝えた。

なお、前記のように、参加人村谷は、五月中は、一時的に二つの番組を持つこととなったが、当時被控訴会社に在籍した他の女性アナウンサー四人の持ち番組は、いずれも同参加人より多かった。

(三)  参加人村谷は、同年七月一五日以後、完全にローテーション入りしたが、遅刻は減ったものの、出勤時刻ぎりぎりの出社が目立ち、また被控訴会社において退職勧告を決めた八月一六日までに一一回の放送事故を起した。さらにその後、八月二五日までに四回の放送事故を起し、八月二五日のそれは「歌のない歌謡曲」のテープを逆に巻きとり、そのまま放送するというものであった。

(四)  また、参加人村谷には、同年五月以後、コマーシャルの誤読(固有名詞や漢字の読み違いなど)が多く、その回数は、八月までに被控訴会社の営業部に判明したものだけで八件あった(これらは、後述の放送事故記録表には記載されていない。)。そのため、営業部では、次第にスポンサーや広告代理店から、参加人村谷を名指しで、苦情を言われるようになったが、このようなことは今までなかったので、社内の営業連絡会議でも取り上げられ(なお、前記八月二五日の放送事故については、スポンサーに謝罪文を出した。)、営業部から四方総務部長、井上放送部長らに善処方を申入れたほか、同部編成課の山田博は、八月七日同参加人に対し、直接、強く注意を促した。

以上の事実を認めることができ、(証拠略)中、右認定に反する部分は、前掲証拠に照らし、にわかに措信することができない。

3  放送事故数の比較等について

(証拠略)を総合すれば、次の事実を認めることができる。

(一)  参加人村谷が起した放送事故は、同人の放送事故記録表(自己申告)によると、昭和四七年五月から退職までに五月六回、六月二回、七月六回、八月一一回の合計二五回となる。その内容を七月以降の分についてみると、次のとおりである。

七月一日 「アローライン・ノンストップミュージック」のレコードが出なかった。

同月七日 時報を間違えた(四時二九分を四時半と)。

同月一六日 スポットを脱落させた。

同月二二日 スポットが時間内に入らなかった。

同日 「歌謡曲リクエストタイム」の曲目を二曲続けて間違えた。

同月二三日 コマーシャルの誤放送(別のスポンサーのところ、同じ原稿を二度読む。)をした。

同月三〇日 コマーシャルの地名を誤読した。

八月一日 「アローライン・ノンストップミュージック」の曲目紹介を間違えた。

同月六日 時報を間違えた(一〇時を一一時と)。

同月七日 「アローライン・ノンストップミュージック」で紹介と別の曲を出した。

同月八日 番組の前後提供を逆にアナウンスした。

同月一四日 「八月一四日月曜」を「八月一二日土曜」とアナウンスした。

同月一六日 「歌謡曲リクエストタイム」で操作ミスによりレコードがかからなかった。

同月一九日 右番組で出だしの音が出なかった。

同月二〇日 コマーシャルを落とした。

同日 レコードの回転セットをミスした。

同月二五日 「歌のない歌謡曲」のテープを逆に巻いたままスタートした。

(二)  昭和四七年五月一日から八月二五日までの間に被控訴会社の女性アナウンサーが起した放送事故数の合計は三〇件であるところ、そのうち二五件が参加人村谷によるものであった。

なお、昭和四七年一年間に、井上放送部長は二〇件、竹下正アナウンサーは二三件の放送事故(自己申告)を起しているが、男性アナウンサーと女性アナウンサーでは勤務形態が異なり、男性の場合は、四通りの勤務形態があって、勤務時間もはるかに長いので、両者の単純な放送事故数の比較は困難である。

(三)  参加人村谷に対する研修の状況は、前記認定のとおりであり、狭義の研修は前述のような理由で必ずしも十分とはいえなかったが、他の新人アナウンサーと比較して著しく少ないということはなかった。そして、同参加人の放送事故の内容についてみると、誤読、誤報、曲目紹介、ミスなどがかなりの部分を占めており、それは研修不足によるというより、集中力の欠如、不注意によるものであり、しかも同人は、一旦ミスを犯すとかっとなって訳がわからなくなるところがあった。

なお、ワンマンコントロールシステムによる放送機器の操作については、前述の広義の研修期間中に、先輩アナウンサーが操作するのを見学したり、これに付添ってもらい自ら操作するという研修が設けられており、通常一週間ないし一〇日程度で操作を飲みこむことができるとされていた。参加人村谷に対しては、三月一一日、同月三一日、四月六日、同月七日、同月八日、同月一四日、同月一五日、同月二一日、同月二五日、同月二九日等に先輩アナウンサーの村田俊子、永野純子などの付添いにより右の点の研修が行われており、この点について他の新人アナウンサーより研修が不足しているということは全くなかった。参加人村谷の八月に入ってからの放送機器の操作ミスによる放送事故は、ローテーション入りして既に三か月を過ぎてからのものであり、研修不十分によるということはできない。

以上の事実を認めることができ、(証拠略)中、右認定に反する部分は、前掲証拠に照らし、にわかに措信することができない。

4  その他日常の勤務状況について

(証拠略)を総合すれば、次の事実を認めることができる。

参加人村谷は、入社当時から四月頃まで特に遅刻が多く、そのため井上放送部長からしばしば厳しく注意を受けた。同参加人の遅刻のために、前記のように、三月一九日、四月二一日、五月四日には、番組について他のアナウンサーが代りを勤めるなどの放送事故を引き起した。五月以後は、次第に遅刻は減ったが、出勤時刻ぎりぎりの出社が目立つようになった。被控訴会社において、新人の女性アナウンサーで、入社当初、参加人村谷ほど遅刻の多かった者はいない。

以上の事実を認めることができ、(証拠略)中、右認定に反する部分は、前掲証拠に照らし、にわかに措信することができない。

5  嘱託への上申見送り及び退職勧告について

(証拠略)を総合すれば、次の事実を認めることができる。

参加人村谷の臨時雇の期間が昭和四七年五月二〇日までとなっていたので、被控訴会社の人事課では、同月一〇日頃、同参加人の上司として嘱託への上申書を書く立場にある井上放送部長に対し、その提出を求めたが、井上は、同参加人には前述のように遅刻が多いなど勤務態度上問題があり、またアナウンス業務についても放送事故を起してローテーション入りが遅れるなどの問題があったので、上申書の提出を断った。その結果、参加人村谷は、さらに一か月臨時雇として勤務することとなった。

次いで、同年六月に入り、前同様上申書の提出を求められた井上は、参加人村谷の勤務状況につき必ずしも満足していなかったが、従来、三か月の臨時雇の期間を過ぎても嘱託にしなかったのは例のないことであるので、上申書の提出に踏み切ろうと考えたが、六月一一日に、前述のような録音が消えているという放送事故が起きたため、上申を取りやめた。七月に入り、井上放送部長は、ヨーロッパ旅行から帰国したが、同人が出発にあたり指示した練習を参加人村谷が全くやっていないことがわかり、また、前述のように、営業部からはコマーシャルの誤読について善処方を申し入れられ、遅刻するなど勤務態度も芳しくない点が見られたので、上申書の提出を断わり、さらに一か月の臨時雇として様子をみることになった。

七月の後半から八月にかけて、参加人村谷の放送事故は前述のとおり極めて多く、放送部の全事故の半数以上を占め、業務連絡会議の席では営業部からの苦情も増えたので、井上放送部長は、これ以上同参加人を使うことはできないと考え、八月一六日頃には、四方総務部長等人事担当者との話合の結果、同参加人にはアナウンサーとしての適性がなく、職場規律上の問題もあるので、辞めてもらうほかはないとの結論が出るに至った。

なお、被控訴会社において、従来、アナウンサーとしての適性がないとして他の職種に配転された者はあっても、離職させられた者はなかったが、参加人村谷の場合、当初からアナウンサー志望の意思が極めて強く、他職種の仕事ということは全く考えていない様子が窺われたので(例えば、五月一三日の放送事故の際、井上放送部長に対し、アナウンサーを辞めるくらいなら山口放送に来ていない旨述べ、八月二五日四方総務部長らが辞めてもらうほかはないと告げた際、他の放送局にアナウンサーとして勤務したいとの希望を表明した。)、被控訴会社は、他職種への配転の打診は行わなかった。

以上の事実を認めることができ、(証拠略)中、右認定に反する部分は、前掲証拠に照らし、にわかに措信することができない(なお、参加人村谷の労働契約書の作成については、後記6で認定のとおりであるところ、控訴人らは、<証拠略>の作成経過を問題としているが、同参加人が嘱託に採用されず、臨時雇のまま雇用期間が延長されていたことは、前記認定のとおりであって、この点につき疑義をはさむ余地はない。)。

6  退職時の状況等について

右の点に関する当裁判所の判断は、次のとおり付加、訂正するほか原判決がその理由中の二で説示するところと同じであるから、これを引用する。

原判決一四枚目裏末行目「第五六号証)」の次に、「、第三五号証の一、二」を加える。

同一五枚目表二行目「三月三一日」を「五月二〇日」に、同四行目「四回」を「三回」にそれぞれ改める。

同一六枚目表八行目「秋貞成彦」の次に「、同四方高元」を、同裏六行目「同参加人に対し、」の次に「放送事故や勤務態度の不良などから」を、同一〇行目「同参加人も」の次に「前からうすうすこうなることは覚悟していたので辞めますと」を、同一七枚目裏六行目「社内の支出手続の関係」の次に「(八月二一日から二五日までの給料は、本来翌九月二七日払いであるので、決裁が得られなかった。)」をそれぞれ加える。

同一七枚目裏末行目から一八枚目表初行目「証人野村良雄の証言」を「参加人組合代表者本人尋問の結果」に改める。

同一九枚目表八行目「認められる」の次に「(右乙第一一九号証によれば、参加人村谷は、右同日小山と会ったことを認めており、甲第五三号証の二〇六も直ちに右認定の妨げとはならない。)」を加える。

四  そこで、控訴人らの主張する不当労働行為の有無について検討する。

(証拠略)を総合すれば、(1)参加人村谷の入社当時、被控訴会社には旧労(第一組合、すなわち現在の参加人組合、以下「第一組合」という。)と新労(第二組合)があったが、会社側と第一組合とは、会社の労務政策をめぐり組合のストライキに対し、会社がロックアウトで対抗するなどしばしば激しく対立していたこと、(2)被控訴会社の四方総務部長は、昭和四六年一二月二八日の参加人村谷の筆記試験当日、同人及び同行した父親に対し、被控訴会社の労働組合には旧労と新労があるなどと説明したこと、(3)参加人村谷の紹介者小松正明は、昭和四七年一月同参加人に対し、入社後は組合運動をしないよう述べたこと、(4)井上放送部長は、参加人村谷の入社後、廊下で会った際、同人の下宿を訪れる人間について尋ねたことがあったこと、(5)四方総務部長は、小松を通じて参加人村谷の父親に対し来社を要請し、昭和四七年六月一九日参加人村谷も同席のもと、父親と会って話をしたが、その際、同参加人の交友関係について言及したことが認められ、以上の事実によれば、被控訴会社は、当時、第一組合に対して良い感情を抱いておらず、社員が第一組合に加入したり、これに近づくことを心よく思っていなかったことが推認される。しかし、被控訴会社が、参加人村谷の入社に際し、同参加人との間で第一組合に加入しないという黄犬契約を結んだとの点、入社後、昭和四七年六月一九日、四方総務部長において同参加人及び父親に対し、問題は放送事故などではなく、組合員と付合っていることだ、絶対に付合わないようにして貰いたいと言うなど、第一組合加入を妨害したとの点、参加人村谷を退職させたのは、同参加人の第一組合加入を危惧し、更には他の臨時雇や嘱託の者の右組合への加入を妨害するためであるとの点については、これに沿う(証拠略)は、次の理由により直ちに措信することができない。すなわち、(証拠略)の結果によれば、(1)当時、第一組合では、被控訴会社との力関係などを考慮し、臨時雇や嘱託の者を組合に加入するよう勧誘しない方針であり、事実、これらの者で右組合に加入した者はなく、また加入しようとする動きもなく、会社側もこのことはよく知っていたこと、(2)昭和四六年一〇月被控訴会社に臨時雇で採用された高下和子は、組合加入の是非について会社側から何も言われなかったこと(もっとも、<証拠略>によれば、高下は、言われなかったのは自分だけである旨述べているが、右の点について言われたという者の名を具体的に挙げておらず、この点は直ちに措信できない。)、(3)参加人村谷は、入社後、労働組合に関心を示したり、その運動に積極的に関与したことは全くなく、第一組合から加入を勧誘されたり、加入の申込みをしたこともなく、ただ、仕事上で知合った右組合員の清水和彦(現在の同参加人の夫)らと個人的に親しく交際するようになり、同人に車で送り迎えをしてもらったり、また同人らとともにボーリング大会などのリクレーションに参加したことがあったに過ぎないこと(もっとも、右証拠中には、同参加人は、昭和四七年三月頃、第一組合に加入したいとの意思を同組合の山田寛治に表明し、野村委員長もその意向を聞いていた旨の供述ないし供述記載があるが、右認定の組合の方針、同参加人の組合活動に対する関心の程度等に照らし、とうてい措信できない。)、(4)四方総務部長が、前記六月一九日参加人村谷の父親を呼んだのは、同参加人の日常の勤務状況すなわち遅刻が多いことや服装が必ずしも職場にふさわしくないこと(四方は、同参加人が派手な服装をしたり、そでにレコード針がひっかかるなど勤務上適当でない服装をしており、浮わついた気持で働いているのではないかと考えた。)、同参加人の男性との交際についてとかくのうわさ(夜男の人と飲み歩いているとのうわさ)があったこと、ことに前記録音の消えている放送事故のあったことなどについて、父親に強く注意を喚起するのが目的であったこと、(5)参加人村谷の退職については、当時、第一組合内でも、本人自身に不適格な点があるとの見方があり、同組合から被控訴会社に対し、不当労働行為であるとの抗議もなかったこと、なお、同参加人の退職当時、臨時雇や嘱託の者が第一組合に加入しようとする動きはなかったことが認められる。右事実によれば、被控訴会社において、臨時雇に過ぎない参加人村谷との間で、あえて黄犬契約を結ばなければならないような理由は見出し難く、また、前記認定事実によれば、四方総務部長において、筆記試験当日、同参加人に対し、第一組合を中傷するような言葉を吐いたり、同部長や井上放送部長において、入社後、同参加人が第一組合員と交際していることを必ずしも心よく思わず、廊下で会った際や放送事故等について父親を呼び出した際に、ついでにそのことを注意したことがあったことが窺われるが、一方、右事実によれば、同参加人が労働組合運動に関与したり、第一組合に加入しようとする具体的状況は何ら認められなかったのであるから、四方総務部長や井上放送部長において、ことさら、右交際のみを問題にしなければならなかったとは考えられない。なお、控訴人らが黄犬契約、組合加入妨害行為と主張する行為については、労働組合法二七条二項の「継続する行為」に該当することを認めるに足りる証拠もなく、既に同項の除斥期間を徒過しているものである。

五  右三、四で認定した事実関係のもとにおいて、参加人村谷が退職するに至った理由について考えると、被控訴会社が同参加人の第一組合加入を危惧し、これを妨害するため、あるいは臨時雇・嘱託の者らのこのような動きを妨害するためみせしめとして、同参加人を離職させるという挙に出る理由はとうてい見出すことができず(なお、労働契約の合意解約の形式をとっていても、労働組合法七条一号の要件を充足する場合は、不利益取扱として、不当労働行為になるものと解される。)、同参加人を離職した決定的理由は、前記三のとおり、アナウンサーとしての不適格によるものと認められる。その他、本件全証拠によるも、被控訴会社が参加人村谷の第一組合加入を妨害するため、更には、他の臨時雇や嘱託の者らの右組合への加入を妨害するため、同参加人を離職させたことを認めるに足りる証拠はない。

六  以上の事実によれば、被控訴会社が参加人村谷を離職させたのは、労働組合法七条一号及び三号の不当労働行為であるとした本件命令は違法であるから、その取消を求める本訴請求は理由があり、これを認容すべきであるから、これと結論において同旨の原判決は結局相当である。

よって、本件各控訴は理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法九五条、九四条、九三条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 横山長 裁判官 浅野正樹 裁判長裁判官杉田洋一は差支えのため署名押印することができない。裁判官 横山長)

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